特別展Exhibition

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村井吉兵衛(1864-1926)は、たばこが専売制になる1904年(明治37)以前に国内最大手だったたばこ業者です。京都のたばこ商の家に生まれた吉兵衛は、将来有望と見込んだ人物を引き入れて「村井兄弟商会」を設立し、アメリカの技術を学んでシガレット(紙巻きたばこ)の製造に乗り出します。1891年(明治24)に「サンライス」、1894年(明治27)には「ヒーロー」を発売し、同じく大手たばこ業者だった岩谷松平や千葉松兵衛と「明治たばこ宣伝合戦」を繰り広げました。さらに1899年(明治32)には葉たばこ産地のアメリカで勢力を増していたアメリカン・タバコ社と資本提携を結ぶなど、その斬新で大胆な経営は日本の産業界に大きな影響を与えました。たばこ専売制の施行によってたばこ業から撤退した後は、銀行を足がかりに鉱業や農場経営など様々な事業に着手し、政財界に幅広い人脈を築きました。当時の実業界では、渋沢栄一や岩崎弥太郎に匹敵する人物として評価されていましたが、今日ではその名を知る人は多くない“隠れた偉人”といえます。
本展は6つの章とエピローグで構成します。たばこパッケージや看板・ポスターなどの多彩な館蔵資料から、村井兄弟商会を中心とした明治のたばこ産業について紹介するとともに、文書や写真などから吉兵衛が興した事業や一族の足跡をたどります。約150点の資料を通して、近代たばこ産業を創った実業家・村井吉兵衛の人物と業績を紹介します。

  • 村井吉兵衛の写真
    個人蔵

  • 「ヒーロー」(両切たばこ)
    村井兄弟商会 1894年(明治27)発売
    村井兄弟商会を代表するヒット商品。両切たばこは端まで葉が詰まっている形態で、喫煙時に葉が口に入りやすいため、シガレットと一緒に厚紙製のホルダーが入っていた。

「明治のたばこ王 村井吉兵衛」開催概要

主催
たばこと塩の博物館
会場
たばこと塩の博物館 2階特別展示室
開館時間
午前11時~午後5時
(入館は午後4時30分)
休館日
月曜日(但し11/23、1/11は開館)、11/24(火)、12/28(月)~1/4(月)、1/12(火)
入館料
大人・大学生 100円
小・中・高校生 50円
満65歳以上の方 50円 ※年齢がわかるものをお持ちください。
※障がい者の方は障がい者手帳などのご提示で付き添いの方1名まで無料。
※なるべく少人数でのご来場をお願いします。

※密集を避けるため、入場制限をさせていただく場合があります。当館の 〈新型コロナウイルスに関連した対応について(2020.10.1)〉もご覧ください。
※新型コロナウイルス感染症拡大の状況によっては、開館時間の変更や臨時休館をさせていただく場合があります。最新の開館状況等は、公式ツイッター、お電話、当ホームページ等でご確認ください。

展示の構成

第Ⅰ章 シガレットとの出会い

村井吉兵衛の実家は、加賀藩鶴来村(現在の石川県白山市)で蚕紙・漆・たばこなどを商っていましたが、吉兵衛の父の代で京都に拠点を移したとされています。吉兵衛は1864年(文久4)京都で生まれ、9歳で分家に養子に出されました。少年時代から養父とたばこの行商で経験を積んでいく中で、小さなたばこ商で終わりたくないという思いを強くしていきました。
当時の日本では、刻みたばこをきせるで吸う江戸時代からの喫煙法が主流でしたが、開港後にもたらされたシガレットが都市部を中心に少しずつ受け入れられ、国内での製造も始まりました。吉兵衛はシガレットの製造に目をつけて、事業の基礎にしようと考えます。
本章では、若年期の吉兵衛を文書で紹介するとともに、当時の輸入たばこのポスターや、国内でのたばこ製造に関わる資料などを紹介します。

  • ポスター「CAMEO」
    アメリカン・タバコ社
    1892年(明治25)頃
    海外からもたらされたシガレットは、石版刷りの美しいパッケージとともにハイカラな人々に好まれた。

  • 第二回内国勧業博覧会 土田安五郎
    有功賞三等 賞状 1881年(明治14)
    彦根藩の下級武士であった土田安五郎が1881年の第二回内国勧業博覧会で有功賞を受賞した賞状。安五郎は日本で初めてシガレットを本格的に製造販売した人物といわれ、その後、日本でもシガレット製造が広まっていった。

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第Ⅱ章 村井兄弟商会の始まり

吉兵衛は洋書などから独学でシガレットの製造法を会得し、1891年(明治24)に両切たばこ「サンライス」を製造・販売、吉兵衛のたばこ業が飛躍するきっかけとなりました。両切たばこという、日本ではまだ普及していないタイプのシガレットで、英語名の銘柄であることも珍しく、「サンライス」は大人気となりました。「サンライス」での成功後、吉兵衛はアメリカに渡り、製造法や原料である葉たばこを視察、葉たばこの買い付けも行いました。帰国後にはさらに研究を重ね、 1894年(明治27)にはアメリカ産葉たばこをブレンドした初の両切たばこ「ヒーロー」を発売、さらに名声を高めました。
吉兵衛は、有望な人物を養子などとして村井家の一員に加えつつ、「ヒーロー」発売と同じ1894年に「合名会社村井兄弟商会」を設立しました。海外経験を有する人物を経営陣に引き入れたことで、積極的に海外と取引を行う社風が築かれていきました。
順調に業績を伸ばす中、村井兄弟商会は、1895年(明治28)に京都で開催された第四回内国勧業博覧会に自社の商品を初めて出品します。結果「サンライス」「ヒーロー」がともに有功一等賞を獲得し、村井の名声はさらに高まりました。
本章では、サンライスやヒーローなどのパッケージを始め、順調に礎が築かれつつある村井の事業の様子、その反面、奇抜な宣伝で、社会から批判を浴びたことを示す資料などを紹介します。

  • 「サンライス」(両切たばこ)
    村井兄弟商会 1891年(明治24)発売

  • 「村井商会打チ毀シノ件」
    1897年(明治30)
    1897年、村井兄弟商会はアメリカ産バージニア葉を使った両切たばこ「バアジン」を発売、購入者に景品が当たるという当時としては斬新な広告キャンペーンを行った。景品は金時計や自転車といった高額なものと宣伝されたが、実際の景品は簡素な小冊子だった。これが消費者の怒りを買い、村井の東京支社が打ちこわしに遭う事件も起こった。

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第Ⅲ章 明治たばこ宣伝合戦

1899年(明治32)、村井兄弟商会はアメリカン・タバコ社と資本提携し、「株式会社村井兄弟商会」を設立、巨大な外国資本を背景に、工場の機械化を進め、販売量を伸ばしていきました。急成長を遂げる村井兄弟商会に対し、対抗したのがもう一人のたばこ王・岩谷松平の岩谷商会でした。
「国益の親玉」を自称する岩谷松平は、輸入葉を使用している村井に対し、国産葉を使用していることを強調、「国益天狗」「愛国天狗」「輸入退治天狗」という名前のたばこを発売、人目を引くキャッチフレーズを使って村井に対抗します。
「天狗の岩谷とヒーローの村井の戦い」は「東vs西」「赤vs白」「口付vs両切」「和vs洋」など、互いを意識しながら、最先端の技術を使って印刷したパッケージやポスター、看板、引札、新聞・雑誌広告、宣伝隊といった、当時考えられるありとあらゆる広告媒体を駆使して繰り広げられました。また、パッケージ印刷のため、村井が京都に東洋印刷株式会社を設立すれば、岩谷も東京で凸版印刷合資会社(現・凸版印刷株式会社)の設立を支援するなど、苛烈な宣伝合戦は印刷の発展にも影響を及ぼしました。この二者の戦いは、印刷技術の発展や広告の先駆けという意味においても、重要な意味を持っているのです。
本章では、当時繰り広げられた岩谷と村井の「明治たばこ宣伝合戦」の様子を、パッケージやポスター、当時の写真で紹介します。

  • 「天狗煙草」ポスター
    1900年(明治33)頃

  • 岩谷自転車宣伝隊の写真
    当時高価で珍しかった自転車を町中に走らせて宣伝を行った。

  • 「ピーコック」ポスター
    1900年(明治33)頃

  • 村井宣伝隊の写真
    音楽隊などを組織して、現在でいうコマーシャルソングを流しながら街中を練り歩いた。

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第Ⅳ章 たばこ、製造専売へ

1904年(明治37)、政府により煙草専売法が成立、村井や岩谷など民間のたばこ業者は廃業を余儀なくされました。そのため政府は、国内業者への説得と廃業の補償、さらに、村井兄弟商会の株を保有する英米の株主たちによる廃業補償を求める動きへの対応が求められました。特に、英米とのやりとりは外交問題にまで発展し、最終的に日本政府が多額の補償金を出すことで決着しました。そして、この際に得た補償金は、たばこ業から撤退した後の村井の事業拡大につながっていきます。
本章では、専売に至るまでの経緯を、文書を中心に紹介します。

  • 村井兄弟商会送別会の際の写真(於・芝紅葉館)
    1904年(明治37)
    個人蔵
    廃業に伴って、提携していたアメリカン・タバコ社の日本での代理人は帰国することになった。写真には、代理人と村井家・村井兄弟商会の中心人物が揃って写っている。

  • 高橋是清日本銀行副総裁より松尾臣善同行総裁宛書簡
    1904年5月20日
    「煙草専売法発布ニ関スル苦情一件」(分類番号3−5−2)より
    外務省外交史料館蔵(展示期間:10/31~11/23)
    日露戦争のための公債を募っている最中、日本政府が村井に十分な補償をしないことがアメリカでの公債募集に不利になっている状況を伝えている。

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第Ⅴ章 実業家 吉兵衛

煙草専売法の施行により多額の補償金を手に入れた吉兵衛は、銀行を軸に様々な事業に乗り出しました。農林、石油、石炭、紡績、さらには貿易などにも事業は拡大され、国内だけでなく、海外にも展開されました。しかしながら吉兵衛の死の直後に起こった金融恐慌により銀行は休業し、吉兵衛の興した諸事業も村井銀行からの融資に依っていたため、事業や資産の売却を余儀なくされ、村井家は全ての事業を手放すことになりました。村井の手がけた事業が、岩崎弥太郎の「三菱」のように次の世代へ継承されなかったことで、当時の名声が今日に伝わらなかったといえます。
本章では、吉兵衛が興した事業について、写真や文書で紹介します。

  • 村井ビルディングの写真(外観)
    1913年(大正2)竣工
    個人蔵
    1918年(大正7)、村井銀行は日本橋室町に建てた村井ビルディングに本店を移した。このビルには、石炭・石油採掘や農林場経営を行う村井の会社も入り、たばこ業撤退後の村井の中枢と言える場所だった。

  • 村井ビルディング内の事業を紹介するコーナーの写真
    個人蔵
    村井ビルディングの中には、鉱業、農場・造林所経営といった村井の事業をジオラマなどで紹介する展示コーナーもあった。

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第Ⅵ章 社交の力

三井・三菱といった大手財閥や、渋沢栄一・大倉喜八郎のような気鋭の実業家は、政治家・文化人との社交や華族との婚姻関係によって、社会的な地位の向上を図りました。
当時の実業家が行なった社交は、外賓の歓待、茶道や骨董収集のサークル、教育機関への寄付や支援など、国家・社会への貢献や教養のアピールにつながるものでした。小さなたばこ商から身を起こした吉兵衛にとってはなおさら、社交は重要なものでした。
本章では、村井が残した社交の足跡を紹介します。

  • 渋沢栄一より村井吉兵衛宛書簡
    1925年(大正14)
    個人蔵
    吉兵衛が自身の邸宅である山王荘洋館を日仏会館として貸与したことへの礼状。書簡の中で渋沢は、日頃から「国家公共」のことに深く意を用いている吉兵衛の精神が表れた行いだと、高く評価している。吉兵衛は、村井銀行を設立して以来、渋沢と親交を深めていった。

  • 九谷焼茶器
    明治時代
    大本山總持寺蔵
    吉兵衛は寺院や教育機関に寄付を重ね、支援を行なった。中でも總持寺との関係は深かった。總持寺には、自身の収集した仏像・仏具や美術工芸品を数多く寄進した。總持寺に深く帰依した背景には、村井家のルーツが加賀にあったことも影響していると考えられる。この茶器には、村井家の家紋である三柏があしらわれている。

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