特別展Exhibition

Web企画展 [第8回]江戸のものづくり 細刻みたばこの系譜

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*手刻みから機械へ かんな刻み機とゼンマイ*

江戸時代後期に誕生した細刻みたばこが広く市場に出回るためには、こすり技術に対応できる熟練技術を持つ刻み職人の確保が必要で、大量の細刻みたばこの製造には、機械の考案と実用化が期待されました。

18世紀の半ばには、従来の夫婦単位の刻みたばこ屋から、複数の刻み職人を抱える刻みたばこ屋が江戸市中にも登場し、細刻みを職として労賃を稼ぐ「賃粉(ちんこ)切り」職人が出現しました。そして、「こすり」の技術が確立された19世紀の初頭に、刻み工程に「かんな刻み機[剪台](せんだい)」と「手押し刻み機(ゼンマイ)」という機械が考案されました。

かんな刻み機は、寛政12年(1800)頃、四国の池田地方で北海道の昆布切り機をヒントに考案されたといわれ、その後関西を中心に普及しました。木工の鉋と同じ原理を利用するため、原料の葉たばこは、一塊の木材のように硬く固めなくては刻めません。〆台(しめだい)という圧搾機で強く圧搾した葉たばこの塊をかんな刻み機にセットして刻みました。一人の労力で1日に約20キログラム前後刻める能力があり、熟練した職人が手刻みした場合の3.5キログラム程度に較べ5〜7倍ほどの製造能力がありました。圧搾の際、油を塗布せねばならず品質が落ち、主として下級品の製造に用いられましたが、逆に火付きが良く漁師に人気がありました。

たばこと塩の博物館で復元展示されたかんな刻み機。

たばこと塩の博物館で復元展示されたかんな刻み機。

かんな刻み機(左)と〆台(右)(狂歌烟艸百首 橘 薫 弘化3年(1846))

かんな刻み機(左)と〆台(右)
(狂歌烟艸百首 橘 薫 弘化3年(1846))

一方、ゼンマイは、文化年間(1804〜18)に、西陣で用いられていた金糸切り機を参考に考案されたといわれます。包丁の付いた把手(撞木)を上下させて葉たばこを刻む運動と、数枚の歯車等の伝動機巧の組み合わせによって、1回の把手の上下運動と、約0.1ミリの刻み幅だけ葉たばこを押し出す運動を連動させた精巧な構造は、江戸時代の産業に用いられた機器の中でも類を見ません。むしろ、茶運び人形や和時計など、江戸時代のからくり技術との共通点が多く、ゼンマイという呼び方からも、からくりとの共通点がうかがえます。品質の良い細刻みが作れましたが、かんな刻み機に比べ製造能力はおよそ半分で、手刻みの約3倍程度でした。

手押し刻み機(ゼンマイ)

手押し刻み機(ゼンマイ)

江戸時代に考案されたかんな刻み機やゼンマイには、共通する設計図などはありません。作られた地域によって機構にも違いがあり、歯車の数もまちまちです。それぞれの職人さんたちが、それぞれに地域や使う人の状況に合わせた道具作りをした結果で、こうしたところにも江戸時代のものづくりの特色が表れています。

そして、製造能力は高いが品質が落ちるかんな刻み機と、能力は低いが品質の高いゼンマイは、地方によって使い分けられながら、江戸時代後期から明治にかけて普及していきました。そして、西洋の機械技術との融合が容易だったゼンマイの機構は、明治以降、水車などの動力の導入につながり、その後の刻み機械の考案・導入へと繋がっていきました。

伝来以降、手刻みの技術で、200年の年月をかけて完成された日本独自の0.1ミリの細刻みたばこ。そこには、丁寧で緻密で、細かい精度にこだわり、科学にまでは到達し得なかったものの、智恵と工夫によって培われた江戸時代のものづくりの特色をうかがい知ることができます。そしてそこには、明治以降の近代化の基礎となり、今日にも通じる日本のものづくりの原点を垣間見ることができるのです。

大日本物産図会 三代歌川広重 大隅国 明治10年(1877)
大日本物産図会 三代歌川広重 大隅国 明治10年(1877)
銘葉「国分」の産地、鹿児島県大隅地方でのゼンマイを使った細刻みたばこ製造の様子。
明治32年(1899)当時の水車動力を導入した細刻みたばこの刻み機(神奈川県秦野地方)
明治32年(1899)当時の水車動力を導入した細刻みたばこの刻み機(神奈川県秦野地方)
ゼンマイの機構を基礎に、水車動力を導入し、細刻みたばこの製造を自動化したモデル。江戸時代に考案・発展したゼンマイの原理を踏襲しつつ、明治以降の近代化の流れのなかで、動力化が図られたプロセスが示されている。
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