過去の特別展

教育者・法律家としての目賀田種太郎
明治13年(1880)、経済学と法律学を日本語で学ぶことのできる初めての高等教育機関として、専修学校(現・専修大学)は誕生しました。目賀田種太郎は、その礎を築いた4人の創立者のうちの一人です。目賀田はまた、音楽教育の改良にも力を入れ、東京音楽学校(現・東京藝術大学)の設立にも関わりました。ここでは、目賀田の生い立ちから、法学や音楽教育普及のために尽力した業績までを紹介します。
国費留学生としてアメリカへ
目賀田種太郎は、嘉永6年(1853)、幕臣・目賀田守文(幸助)の長男として誕生。幼少期は神童と呼ばれ、わずか9歳で幕府が設立した当時の最高学府である昌平黌(しょうへいこう)に入学します。明治維新により幕府が瓦解した後は大学南校に学び、17歳になった明治3年(1870)、文部省初の国費留学生の一人として渡米。ハーバード大学に入学し、法学士の学位を得て帰国しました。
経済学・法律学の高等教育機関「専修学校」を設立
明治8年(1875)、文部省の官僚となった目賀田は、留学生監督という立場で再び渡米。この時期、のちに専修学校をともに設立する相馬永胤(ながたね)、田尻稲次郎、駒井重格(しげただ)らと出会います。渡米中から法律学校の設立を構想していた目賀田ら4人は、明治12年(1879)に帰国するとすぐに、学校の設立に向けた行動を始め、洋学者の先達である福澤諭吉と箕作秋坪(みつくり・しゅうへい)に相談を持ちかけます。
同年、目賀田は代言人(弁護士)免許を取得すると同時に、福沢諭吉が創立した慶応義塾に夜間法律学校を開設。さらに翌年の明治13年(1880)には、箕作秋坪が創立した三叉塾に経済法律科を開設します。この経験をもとに、4人が中心となって明治13年(1880)に創立したのが、専修学校(現・専修大学)でした。
専修学校の創立者たち
専修学校の4人の創立者のうち、法律科を担当したのは、相馬永胤と目賀田種太郎。2人はともに、日本で3人しか存在しなかった司法省附属代言人(弁護士)を務めていました。一方、経済科を担当したのは田尻稲次郎と駒井重格。この当時、経済学を教えられる人物はほとんどいなかったため、田尻は現在の東京大学、一橋大学などでも教鞭をとり、駒井は一橋大学の校長に招聘されました。
相馬永胤
(そうま・ながたね/1850-1924)
コロンビア大学卒業後、イェール大学大学院で法律学と経済学を学ぶ。専修学校の初代学長を務めたほか、横浜正金銀行頭取などを歴任した。
田尻稲次郎
(たじり・いなじろう/1850-1923)
イェール大学卒業後、同大学院で経済学と財政学を学ぶ。大蔵次官、会計検査院長などを歴任し、晩年は東京市長も務めた。
駒井重格
(こまい・しげただ/1853-1901)
ラトガース大学で経済学を学ぶ。大蔵省で国債局長を務めたほか、高等商業学校(現・一橋大学)では名校長として慕われた。
音楽教育を日本へ
明治8年(1875)、留学生監督として再渡米した目賀田は、音楽教育の実態調査も任されていました。目賀田は、文部省留学生の伊澤修二とともに、音楽教師のルーサー・ホワイティング・メーソンに師事。二人は文部省にメーソンの招聘を提言し、明治13年(1880)に来日が実現します。
メーソンが教鞭をとったのは文部省に設置された音楽取調掛。取調掛は明治20年(1887)に東京音楽学校(東京藝術大学の前身の一つ)となり、メーソンの門下生だった伊澤修二が初代校長を務めました。
伊澤修二
(いざわ・しゅうじ/1851-1917)
大学南校卒業後、愛知師範学校長に抜擢される。校長時代、文部省に「唱歌遊戯」を提言。アメリカでメーソンに師事し、帰国後、東京師範学校(現・筑波大学)校長、東京音楽学校校長を歴任した。




