特別展Exhibition

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専修大学140周年記念事業 目賀田種太郎と近代日本 ~教育者・法律家・官僚として~

大蔵省官僚としての目賀田種太郎

明治16年(1883)、大蔵官僚となった目賀田は、地租課長や横浜税関長などを歴任。やがて、国の収入面を担当する主税局の局長に就任します。
目賀田が主税局長を務めた明治27年(1894)から明治37年(1904)の10年間は、日清・日露という2つの大きな戦争が起きた時期にあたります。軍備拡張を支える大きな財源が求められる中、目賀田はさまざまな税制改正や新しい税の創設に尽力。たばこの専売化もその一つでした。

「東京諸官省名所集」
三代広重画 明治9年(1876)

「東京諸官省名所集」は、三代広重(1842-1894)が文明開化期の洋風建築を描いたシリーズ。上段に「内務省 大蔵省」。大蔵省は、明治2年(1869)に国の財務行政を掌る官庁として誕生した。

2度の煙草税則改正

課税の対象としてたばこに注目した明治政府は、明治9年(1876)に煙草税則を施行して課税を始めましたが、この税則には不備な点が多く、脱税が横行して思うような税収を得ることができませんでした。そこで明治16年(1883)に煙草税則を改正。これによって営業税の対象を製造人・仲買人・小売人と規定し、印紙税は卸売定価と量目に賦課。印紙は製造段階で貼ることになりました。
しかし、この改正でも脱税がなくなることはありませんでした。その要因の一つに、当時の刻みたばこが“玉造(たまつくり)”と呼ばれる束で販売されることが多く、帯状の印紙が糊づけされていなかったことが挙げられます。
こうした問題を踏まえて、明治21年(1888)に再度、煙草税則を改正。刻みたばこの包装を改良し、需要を伸ばしつつあった紙巻たばこも課税の対象としました。また、営業税は工場・販売所ごととし、その登録も行うことになりました。

明治21年の煙草税則
改正前と後の刻みたばこ

〈左〉は改正前の、“玉造(たまつくり)”と呼ばれるかたちの刻みたばこ。印紙を帯状に巻いていた。〈右〉は改正後の、紙包みとなった刻みたばこ。印紙を包みのつなぎ目に糊づけしたため不正な再利用ができなくなった。包みには、製造年月日・量・定価・製造人とその住所を記入することも義務づけられた。

日清戦争と葉煙草専売法

目賀田が主税局長となった明治27年(1894)、大蔵省では同年に起きた日清戦争後の戦後経営を図るため、さまざまな増税案を考えましたが、その中で最も税収を上げられると期待されたのがたばこでした。大蔵省は、国が葉たばこを農家から買い取り、製造業者に売り渡すという葉煙草専売法案を国会に提出。この法案は明治29年(1896)に可決され、明治31年(1898)より施行となりました。

横浜葉煙草専売所
葉煙草専売法によって、全国各地の葉たばこ耕作地に、耕作者が葉たばこを納める専売所(取扱所)が建設された。専売所の設計を任されたのは、目賀田の渡米中に知己を得た建築家の妻木頼黄(つまき・よりなか/1859-1916)。妻木は横浜の赤レンガ倉庫の設計や日本橋のデザインなどでも知られる。

日露戦争と煙草専売法

日清戦争の後、今度は日露間の緊張が高まりつつある中、さらに税収を上げることが命題となった大蔵省では、抜本的な解決のため、目賀田を中心にたばこの製造も専売制とする準備を始めます。こうした大蔵省の動きに対して、たばこ製造業者は反対運動を展開しました。
しかし、日露戦争に向けた世論の高まりに加え、大手たばこ製造業者の村井兄弟商会が、世界の市場を席巻していた英米トラストに乗っ取られるのではという危機感もあり、日露戦争が勃発した明治37年(1904)に煙草専売法案は可決。同年、施行されることになりました。

『少年工芸文庫第十九編 煙草之巻』
石井研堂 明治37年(1904)

『少年工芸文庫』は、当時の工業製品の製造工程を中心に、産業の歴史的背景を含めて、子どもたちに分かりやすく解説した読み物のシリーズ。『煙草之巻』では「煙草トラスト」という項目を設け、英米のたばこトラストについても詳しく解説している。