歌舞伎の中心地だった江戸と上方を行き来した役者たちは、両地で浮世絵に描かれた。上方では、より写実的で、のっぺりとした独特な画風の上方絵が発達し、江戸より100年ほど遅い寛政3年(1791)から定期的な版行が始まったとされる。当初はプロの絵師ではなく、役者の贔屓や粋人が余業として描き、役者絵版行が商業的に安定した天保期(1830~1844)以降、専業の絵師が登場した。天保の改革により制作は一時中断されるが、弘化4年(1847)頃から再開された。再開後の上方絵は従来の大判よりも一回り小さい中判となり、1作品に対し上摺と並摺の2種が用意された。
現代の映画やドラマが豪華キャストで話題を集めるのと同様、江戸時代の歌舞伎も人気役者の共演で集客をはかったが、その背後には金主というスポンサーの存在があった。
化政期の中村座の金主・大久保今助は、文化11年(1814)に上方の人気役者・三代目中村歌右衛門を江戸に招致して江戸の人気役者・三代目坂東三津五郎と共演させた。同年11月の「廓文章」では、二人が夕霧役と伊左衛門役を入れ替える趣向が好評を博した。この7年後には、今度は三津五郎が上方に上り、江戸と同じように、二役を毎日入れ替える趣向で上演した。











